異本論

外山滋比古の表現文化について考えた本。
「異本は収斂する。そして収斂した異本のみが歴史を作り、文化を形成する。」 というような内容。
「異本」とはオリジナルに手を加えたものの総称として使われている。文学でいえば、ある作品を呼んだ読者各人に残るその作品は必ずオリジナルとは異なり、さらにそのすべてが少しずつ異なるはずであり、それが異本である。単語でも文学でも他の芸術でも、オリジナルに対してたくさん生まれた異本が一つの方向に収斂していって古典が生まれる。
であるからよく言われる「あるがままに読む」という言葉は、個人ということを踏まえ、また上のことを踏まえれば、作品が「あるがままに」読まれるということはナンセンスと言うべきである。「あるがままに」が尊ばれるのはオリジナルに近いほど良しとする文献学的な考え方であるが、印刷技術の出現する前は異本があって当たり前だったので、これは最近の考え方であるといえる。文学が発展するためには多くの異本が存在すべきなので「あるがままに」読む必要は無い。第三者による改変は悪、とする考え方は必ずしも正しいものではないというのは、ミロのヴィーナスの手が復元されたとして、現在の手がない状態よりも良いものとなるかどうかということを考えればおのずと明らかである。
また解釈することは会話や翻訳作業と同様にすべて異本を作っていることに他ならない。異本ができてはじめて、作品は本当にわかったことになる。すべての表現は異本と表裏一体なのである。
著者の文章は国語の問題に出てきそうなきれいな文章なので、書かれていることを説明しようとすると本文そのままになってしまうが、表現というものについて深く考えてあって楽しい。

異本論 (ちくま文庫)

異本論 (ちくま文庫)