偽史と奇書の日本史

偽の歴史と書いて偽史、そういうものが歴史上いくつも残っている。適当なことが書かれているだけでは誰も信じないが、それなりに裏付けらしきものとセットで出されたり、人が信じたいような内容であったりすると時に信じる人が出てきてしまう。よほどの荒唐無稽を除いたあとに残るものは素人には判断が付きにくくなってくる。さらに一部の真実を含んでいたりすればこれは玄人でも判断に困るものとなる。そもそも歴史は本物を見て確認するわけにはいかない。見てきた人は誰もいないのである。今は本当の歴史とされていることでも、明日になったら偽史でしたとなることがないとは言えない。例えばかの有名な「古事記」だって、神話の部分は偽の歴史だ!といえないこともない。
ただし偽史の裏にはそれを作った人の欲やら希望やらが潜んでいるので、かろうじてそれと判断される。だから逆になんの欲も目的もなく徒労を重ねることができれば偽史を正史と思い込ませることもできるかもしれない。ただしあまり面白くはないかもしれない。
一方でこの本には奇書についても掲載されている。ただし偽史と奇書で別に章立てているわけではないので判別しづらいのが玉に瑕。終わりの方でマーシャルについて書かれた「南洋探検実記」という本も載っていた。これは明治時代にマーシャルで邦人の漂流者か殺されたと聞いて調査にでかけた人が書いた本だが、これが別に種本があって著者の経験によるものではない、という説もあってに真偽の程はわからず、偽史なのか奇書なのかもよくわからないことになっていた。 

偽史と奇書の日本史

偽史と奇書の日本史