人間失格

太宰治の小説。人間を信頼できない主人公・葉蔵の手記。
他人を信頼するというのは他の人の頭の中をのぞく行為に近い。つまるところ他人が何を考えているかはわからないので、結局どこで折り合いをつけるかということになるのだが、苦労を知らない生まれ育ちの良さゆえに、その悩みにとり憑かれてしまったのが葉蔵の不幸。ただ多くの人が折り合いをつけているからと言って少数派が悪いとはいえない。悪いのは要領である。
別の見方をするならば信頼するということは期待することであり、周りに何も期待しないのはそれだけ己を高く周りを低く見ていることでもある。この考えでいくと葉蔵は自業自得というか自縄自縛。
太宰の作品というのは当時評判となったようだが、誰もが通過しそうなところで立ち止まっている葉蔵の話がウケたということは、おそらくだが当時の多くの日本人は同じようにまじめだったのかもしれない。今よりも。現代であれば、おそらく高校生くらいまでなら同様に煩悶するかもしれないけども、大学卒業してまでここに立ち止まっている人は少ないのではないか。これには大学卒業した頃には社会人としてやっていかなければならない、「そんなことしてる場合じゃない」という忙しい現代人の苦衷もあるのかもしれない。
では『人間失格』はいつ読むべきか。一般に『人間失格』は高校生のうちに読んでおくべき、となっていることが多いように見受けられる。たしかに思春期のうちに葉蔵と同じようなことをきちんと考えるのは良い。しかし『人間失格』を読んで、「葉蔵は大変だなあ。自分の場合はどうだろう。人との関係をどのように築いていくべきだろうか。」という考えに至る高校生がいるだろうか。人は渦中にいるよりも対岸にいる方がうまい判断を下せるのである。当人は渦の中にいながらも最も良いと思われる選択をしているつもりでも、後になってからの判断の方が冷静かつ的確なのである。葉蔵も良かれと思ってやったことが今になって悔やまれるからこんな手記を残したのだ。
では渦中の判断は全てゴミかクズかというとそんなこともない。後になって振り返れば、みな良い思い出になるということもある。「苦労はしても笑い話に時が変えるよ」という歌もある。ちなみに「秋桜」の一節であるが、私は山口百恵バージョンが好きだ。というわけで、『人間失格』は思春期の熱が冷めてから読むのが適しているが、思春期において読んでもそれなりに意味はある、と思われる。

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