中世日本の予言書―“未来記”を読む

予言書というと私たちの世代には何と言ってもノストラダムスの創世記である。1999年もとうの昔に過ぎ、アンゴルモアの大王は空から降ってこなかったわけだが、その昔、「ノストラダムスの大予言」の本を読んでいて怖くなった兄がベランダから本を投げ捨てたのも今となっては良い思い出である。
さて日本の予言書と言えばだれもが知っている聖徳太子の未来記である。「黄鶏人に代わって食し、黒鼠牛腸を食らう」という有名な一節は何のことなのか。私も単純にその予言とそのまわりについて知りたくて本書を手に取った口だが、きっと多くの読者もまた同じ動機だったのではないだろうか。
だがしかし本書はそのようなミーハーな期待に応えるものではない。いや各種未来記の背景と説明はあるものの、もっと踏み込んで何故未来記なるものが書かれたのか、そもそも未来記とは人々にとってどういうものなのか、ということについてまでまとめた本である。
著者は巻末まで「未来記は偽書」とは述べず、未来記の著述者や内容に敬意を払ったうえで解説しているので読んでいて気持ちが良い。つまるところ「未来記は偽書」なのである。ではあるがそれが書かれるにはそれなりの理由や背景がある。「未来記」は中世日本に多く人の口に上ったが、それには中世という文化の爛熟、一部の人々ではあるが高い教養、そして明日の読めない社会への不安、これらが揃って生まれたものなのである。何がどうなると記された「未来記」は、裏を返せば当時の人が当時の時代、もしくはそれより前の時代をどう見ていたかがわかる貴重な書物であるともいえる。著者の言葉を借りれば、これもまた歴史の叙述の一つなのである。

中世日本の予言書―“未来記”を読む (岩波新書)

中世日本の予言書―“未来記”を読む (岩波新書)